こんにちは、木暮太一です。
先日、「学校の試験にスマホを持ち込めるようにしたほうがいい」という議論を耳にしました。「これからは答えがない時代だから、『答え』を知っていても、意味がない」というような発言もありました。いまや、知らないことはgoogle先生に聞けばすぐに「答え」が見つかる時代です。そのため、単純な知識は持つ必要がないと主張する人もいます。
なるほど、と考えさせられることも多かったのですが、ちょっと立ち止まって考えた方がいいと思うです。「覚える必要はない」っていうけど、本当にそうなのかな? って思うんです。
たしかに、googleで調べれば、データや知識は検索できるでしょう。これまで日本の試験であったような、マークシート式の問題、一問一答的な問題は、意味をなさなくなります。単に「覚えている」ということの価値が極限まで低下するんですよね。
でもね、ではgoogleで検索できるから何も知識がなくていいかと言えば、そう言うことではないと思うのですよ。それは、知識がなければ、人は考えることができないからです。正しい知識を持っていて、初めて正しく考えることができるし、有用なアイディアが生まれると思うんです。
言い方を変えると、データや知識は「ファクト」です。詰め込み型の教育が否定されることが多いですが、それが「ファクト」を軽視した発想になってしまってはいけません。
もちろん、データ・ファクトを知っているだけでは意味がありません。でもだからといって「知らなくていい」ということにはならない。知識は思考の材料です。知識がベースになければ、正しく考えることができないと思う。知識は目的ではなく、手段。知識を持ったうえで、それを使えるようにならなきゃいけないわけですが、そもそもの知識がなければ、妥当な方向性で考えができないと思うんです。
たとえば、「右肩下がりの出版業界で、出版社が生き残るためにどうすればいいか?」というお題が与えられたとします。これは一問一答式の問題ではないので、あらかじめ用意された「答え」はありません。知識があるだけでは有効な考えは出てこないでしょう。
でもね、逆に知識がなければ、(よほどのセンスや洞察力でカバーしない限り)まっとうな議論はできないと思うんですよね。現在の出版業界の構造や、書店の数、年間に出版されている本の数、なぜ出版が「右肩下がり」なのか、などの現状を把握しないことには前に進めないと思う。
ぼくはいわゆる「詰め込み型」の教育で育ったひとりです。でも、それが悪かったとはあまり思っていません。当時「詰め込んだ知識」が、いまのぼくの考え方の基礎を作ってくれているからです。
最初のお題に戻ります。学校の試験にスマホ(orパソコン)を持ち込むこと、みなさんはどう思いますか?
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