こんにちは、木暮太一です。
コミュニケーション力について、子どもに身につけてもらいたい能力は、各国で違うようです。わかりやすいところで、日米で比較すると日本では、相手の気持ちがわかる子に育ってほしい、ちゃんと話を聞く子になってほしいという意向が強いようです。
一方、アメリカでは、違います。アメリカでは、自分がしてほしいことが何か明確にいえる子になってほしい、自分の意見を言える子供になってほしい、という意見が多いです。
言葉を変えると、情報の受信力を高めたいと思っている日本と、情報の発信力を高めたいと思っているアメリカ、と言えるのではないかと思います。
これはもちろん、社会の中で醸成された“望み”で、どちらがいいということではありません。ただし、社会が多様化していくと、「話を聞くこと(情報を受信すること)」以上に「話を伝えること(情報を発信すること)」が重要になっていきます。
■受信者責任か、発信者責任か
「木暮、時間があるときに、なんとなく春っぽい企画を検討してもらえるとうれしいなぁ、なんて。よさげな感じで」
これはぼくが企業勤めしていた時に、営業担当マネージャーから言われたフレーズです。そして、この話を受けて、“春っぽい”企画がなんかないかなぁと考えていました。ところがその次の週の会議で、「木暮、あれどうなってる? できた資料見せて」と、企画書の提出を求められました。まだ検討中であることを伝えると、「いったい何を聞いていたんだ!? どうなってるんだ、お前は?」と激しい口調で怒鳴られたのを覚えています。
(おっと、これってぼくが悪いの……?)
そう感じながらも、何も言えず。。。
情報が伝わらなかったとき、その責任の所在をどう考えるのかは、その社会、組織、もしくはその個人の関係性によって違うと思います。ただ、大きく考えると、「話を聞いている人が理解できなかったことに責任がある」と考える“受信者責任”と、「伝える側が伝えられなかったことに責任がある」と考える“発信者責任”に分けられますね。
日本は長らく“受信者責任”に重きが置かれていました。学校で授業が理解できないのは生徒のせいでしたね。企業内でも、情報の受け手に責任が求められることが多々ありますし、ぼくもそういう経験をしてきました。情報の受信者責任に、全く責任がないのではありません。先程の話でも、「いつまでに、どんなものを」を確認しなかったぼくに落ち度があります。
ただ、このような類の話で「聞く側が、ちゃんと確認しなかったのが悪い」とできるのは、そもそもの前提認識・共通認識がある場合のみです。これからの時代、文化も違えば、言語も違う、意識も好みも全然違う人材とやり取りしていかなければいけません。
冒頭で「アメリカでは、自分の意見をはっきり言える子どもになってほしい、という意向が強い」という話を出しました。アメリカのような多種多様な人間がいる社会では、“受信者責任”よりも、“発信者責任”を強く意識せざるを得ないのでしょう。
●受信者責任を重視したあまり、自分の意見が言えなくなっていないか?
相手が伝えたいことを頑張って理解しようとするのはとても大事なことです。コミュニケーション研修でも「聞く姿勢(傾聴力)」は重要な項目に位置づけられています。
ただし、当たり前ですが、聞いているばかりで意思の疎通はできません。受信力(聴く力、質問力、理解力、理解するにあたっての前提知識・状況把握)を鍛えるだけで、社会で生きていく力が身につくかというとそうではありません。
受信力でなんとかなるのは、課題が与えられ、その与えられた課題に自分一人で取り組めばいい時のみです。受験勉強が最たる例ですね。問題は与えられます。そして与えられた問題を、短時間で間違いなく答えを導き出すことが重視される(というか、それしか求められない)ので、先生が言っていることを聞き、それが理解できれば基本的にはOKだったわけです。
繰り返しますが、これはこれで重要なんです。
しかし、この受信力を重視するがあまり、発信力がないがしろになっていないかと感じる場面が多々あります。「ないがしろになっている」以上に、自分が言いたいことが言えないで人が非常に多いのではと思うのです。
学校教育も、いろいろな点で変化しているとはいえ、情報を発信する力を育成する授業はほとんどないのが現状ではないでしょうか?
相手の言っていることを理解できるだけでは、コミュニケーションは成立しません。同時に、自分が伝えたいことを、しっかり伝えきる力が不可欠だと思うのです。
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